前回の記事では愛に関するお話しをしましたね。
我々生物は例え無機物であっても愛することができる
それが前回の内容でした。
しかし同じ愛でも無機物に向ける愛と、同じ種族や生物に向ける愛は大きく異なるはずであり、
愛はもっと複雑であるはずです。

そのため今回は無機物と生物に向ける愛にはどんな違いがあるのか。
愛の正体とは何なのか。
この問題をある実験を通して考えてみたいと思います。
愛の定義

それでは改めて、我々はどんな物に愛を感じるのでしょうか?
親への愛
恋人への愛
子供への愛
友人への愛
ペットへの愛
上げればきりがないほど、様々な形があると思います。
しかし1つ共通して考えるとすれば、自分が付き合い続けたいと思う相手、
つまり付き合うことにメリットが生じる相手に愛が芽生える、ということはできないでしょうか?

無条件に自分を助けれくれる相手、自分を大切にしてくれる相手、
そうした相手を特別なものとして認識するために、愛という感情が芽生える。
これはあり得るかもしれませんね。
愛は打算的なものなのか

もし今の仮説が正しければ、同じ立場で愛する対象が複数居る場合はどうなるのでしょうか?
例えば恋人候補が複数居る場合や、親候補が複数居る場合。(普通はあり得ませんが)
これらの場合は
自分にとって一番利益をもたらす相手に愛を感じるはずですよね。
それでは実際にこのようなケースが起きた場合、被験者はどのような相手を愛する対象として選んだのか。
親への愛という視点から1つの実験を紹介致します。
サルの愛情実験

1950年代にウィスコンシン大学の心理学者ハリー・ハーロー博士は、子供がどんな物を親と認識し、何に愛を注ぐのかを確かめるためにとある実験を行いました。
実験の内容は下記の通りです。
・親から引き離した生まれたばかりの猿を用意する。
・猿の親役として2つの猿に見立てた人形を用意する
・一体は鉄のワイヤーで出来ており、胸の部分には哺乳瓶が付き、吸うとミルクが飲める
・もう一体は柔らかい布で覆われており、温かみはあるがミルクは出ない。
ハーロー博士の見立てでは、
猿は柔らかいだけの布の人形よりも冷たく固くてもミルクを与えてくれる鉄の人形を親として認識するだろうと考えていました。
では結果はどうなったのでしょうか。
実験結果

結果として博士の予測は大きく外れることになりました。
猿は布に包まれた柔らかい人形を親と認識しお腹が空いたと人形に訴え続けたのです。
空腹で耐えられなくなった時だけ、鉄の人形のミルクを飲みましたが、
それ以外は側に寄るようなことはなく、
基本的に布の人形から離れることはありませんでした。

実験の結果を見る限り、メリットから愛が生まれるという最初の仮説は外れることになりそうです。
メリットから生じるものでないなら、愛とはどのように生まれるのでしょうか。
この答えは実験での猿の行動に示されています。
愛はどのように生まれるのか

実験中、猿はミルクをくれる冷たい鉄の人形よりも、柔らかくて温もりがあるだけの布の人形といることを選びました。
つまり3大欲求の食欲よりも温もりを優先したのです。
なぜこのような行動を取ったのか。
それは単純に食べ物を貰えないことに対する不安以上に、自分を包んでくれる温かみがないことに不安を感じたからでしょう。
つまりこの物理的かつ心理的な温かさや安心感こそメリットを凌駕する重要な要素であり、
これこそが愛の正体なのです。

だからこそ、この要素を内包していれば、例え無機物であっても自分が心理的に安心できる物には愛を注ぐことができるのです。
ハヌマンラングールが自分達とよく似た、仲間のようなロボットの死を悲しんだのはこれが理由ですね。
しかし同時に無機物では生物の持つ物理的な温かさは再現できないため、そこに違和感が生じてしまう。
そのため布の人形を親とみなした猿のように、少しでも温かみを求める心が無機物と生物に向ける愛を別物だと認識させるわけですね。
最後に

愛とは心理的かつ物理的な柔らかさや温かさである。
これが筆者の考える愛の正体となります。
なんとも淡白であり、ロマンもへったくれもないですが、無理矢理言葉で表現するならばこういった具合になるのではないでしょうか。
共感を呼ぶには少し暴論が過ぎるかもしれませんが、
こういう考え方もあるのかと少しでも面白がって頂ければ何よりです。
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